其の十七 長野峠

 峠ってやつはいつの時代も交通の要衝になる。
 利便性のために新しく開かれる峠もあるが、古の時代から姿を変え続ける峠もある。



 長野峠の名前は鎌倉時代にこの地を治めた長野工藤氏にちなんでいる。北畠、織田に吸収されて長野家が滅んだ後も伊賀街道長野宿が残り、今の長野峠の名の基に。



 現在の長野峠。
 平成の時代になって開通した近代的なトンネルで一気に抜けてしまうことが出来る。

 こんな長野峠だが、時代時代の道を今も見ることが出来る。



 平成のトンネルを伊賀側に出たところから分かれる旧道に入る。



 俳人・松尾芭蕉は伊賀の出身で、この地で詠んだらしい句が
 初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり
である。句碑は今は通る車もなくなった旧道の中にひっそりと佇んでいる。



 この道は最近まで使われていた道だが、今は超えられなくなっているということか。
 旧道のトンネルなんてどこでもいい話は聞かないし、新道が開通したらすぐに閉じられることが多くなっている。



 そして昭和時代のトンネルにたどり着いたが・・・

 やはり閉じられていた。
 わずか2〜3年前までは普通にここを通っていたんだ。特段難所とも思っていなかったし、よくある普通の田舎道レベル。
 それがこうして新しい道が出来、これまでの道は使えなくなる。これとて開通は昭和14年とか。70年ほど使われたというのは寿命が短いようだが、それだけ大事なルートとして扱っていたのか。



 旧道の伊賀側には開通の記念碑と小さな広場がある。もうここへ人が来ることはほとんどなかろう。
 伊賀市になったのは平成の大合併以降なので、この看板自体もそんなに古いものではない。小蓑塚も同様、整備はしたものの・・・計画が一貫していなかったね。



 トンネルと小蓑塚の間に、林道が分かれている。
 そして、そこからもっと昔の道、徒歩で超えていた時代の長野峠へ行けると言う。



 水が流れてやたら滑るコンクリート舗装が途切れ、ダートになって分かれ道。
 峠は右の方角・・・のはず。わずか数十メートルで走れる道ではなくなった。

 行ってみるしかないわな・・・

 バイクを残して歩き始めた。トンネル付近から見た限り、大して距離はないと思う。



 本当にこっちでいいのだろうか・・・
 道筋がかなり怪しくなってきている。枯れ沢の様になって右へ左へ渡りながら、どこまで行くかと考えながら。



 茶屋の跡が見つかった。このルートで間違い無い。



 茶屋からすぐに目の前に空間が見えた。

 そこには「伊賀街道長野峠」と書かれた標識が置かれていた。

 ここが長野峠だ。



 長野古道、とも。
 徒歩の時代の峠、制覇。



 ・・・あらら?舗装道路らしきものが見えてるんだが・・・



 なんだよこれ。峠のすぐそばまで舗装道路が来てるじゃないか。
 歩いてくる必要なかったのか。

 舗装道路へ出てみる。
 ここは林道だった。経ヶ峯林道とあった。



 携帯のGPSで位置を確認。
 ここからまだ古道で下れる様だが・・・



 バイクの所まで戻らねばね。



 ということで今度は昭和道の津側。
 こちらもトンネル直前に広場があって記念碑がある。

 そして古道の峠に直結する経ヶ峯林道はここから分かれている。
 林道は通行止めになっていた。そうでなくとも全線開通はしていない。開通すれば錫杖湖まで抜ける計画の様だけど。



 津側もトンネルは厳重に閉められていて入ることも近づくことも出来ない。



 さて、長野峠にはもう一つの時代がある。
 昭和のトンネルが出来る前に使われていたもっと古いトンネルが現存しているという。



 もっと古いトンネルは明治時代のもの。ここから山道を登っていったところにあるらしい。



 もはや獣道に毛が生えた程度にしか見えないが・・・本当にこんなところにトンネルが?



 おー!あった!



 これが明治のトンネルだ。

 石組みが美しいトンネルは明治18年の開通。長さは216mという。
 当時、どういう車両があってどう走っていたのかはわからない。ただ、トンネルを作るということは交通があったということだ。



 暗くて中は見えないが、フラッシュと明るさ補正をいっぱいに効かせて探る。
 奥は崩れている様でフェンスで遮られている。泥が深く近寄るのはやめた。



 振り返れば明治の道路。木橋は遊歩道として整備されたものか。すでに往時の姿ではないのかもしれない。
 またこの先は、巨大風車の工事により道がなくなったと聞いた。



 明治のトンネルの伊賀側が見たい。
 明記されていないが、この坂道が怪しい。



 入り口に少し段差があったのでバイクを置いて歩いたが、あそこが上れれば案外走れる状態の様に思える。



 そして、砂防ダムのように見えたこの場所。
 左手奥を眺めてみると・・・



 ほとんど埋もれてしまっているが、トンネルの上部が少しだけ見えている。
 明治の道の伊賀側は、こうしてすでに道ではなくなっていた。

 戦国以前から通行のあったと思われる長野峠。
 それぞれの時代の道は、まさに一世を風靡してきたものだったのだろう。

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