第21回 国道363号線

 中津川方面へと走る。行きたいのはその向こう、付知・加子母の林道群だ。
 名古屋から中津川へと向かう道は、幾通りかの選択肢がある。高速道路を使うことも出来る・・・が、4輪でも下道で2時間以内のところ、それが1時間になる程度か。特に急がないのなら、のんびり下道を走っても良いだろう。もちろん、原付の自走では関係ない話だが。
 今回は国道363号線を選んだ。363号線は、正に起点名古屋・終点中津川という、おあつらえ向きの国道。ストマジがいくら80km/h以上出るとは言っても、広くてトラックの多い国道19号線は通りたくない。平日の朝で渋滞に巻き込まれるのも鬱陶しい。363号線なら、瀬戸市内さえ抜けてしまえば、あとは渋滞する場所などほとんど思い浮かばない。
 名古屋市内、正にその中心”名古屋市役所”の交差点から、東に走れば国道363号線。名東区の引山までは中央分離帯側に基幹バスレーンのある道である。
 しかしこの国道、起点の位置がはっきりしない。市役所の交差点にある標識に、すでに「363」の表示があるが、実際にはずっと県道215号線が続く。
 道路地図の表示で、黄色線から国道を示す赤線に変わるポイントは、なぜか見るたびに違っていた。守山区の四軒家交差点からだったり、もう一つ西側の森孝新田交差点からだったり。近年は、ほとんど東名高速の高架下からとされていた。それにしても実際に起点標識などはない。
 ごく最近の地図で、ようやくはっきりと引山交差点からに統一されてきたようだ。国道302号線(名古屋環状2号線)と交わるところ。その手前で基幹バスレーンが終わっていることも、ここから国道となるとすればごく自然に見える。302号線上の標識に、はっきりと引山から西(写真は南向きなので右)が県道215号線、東が国道363号線と表示されている。
 引山交差点から東へ、いよいよここから旅が始まる。中津川までは80km余りの道のり。
 引山は名東区だが、東に走るとすぐに守山区に入る。近辺は古くからの家並みで、脇に入ると軽自動車でやっとギリギリ通れるぐらいの細い路地ばかり。その間を、片側2車線の広い国道が抜けていく。
 しかしこの道、起点の表示が無いどころか、「国道363号線」の逆オニギリ型の標識も立っていない。頭上の標識にはしつこいぐらい「363」の表示があるのだが、道路脇の標識がなかなか現れない。
 4kmほど走ったところ、本地ヶ原郵便局の前で、ようやく363号の標識を発見。と思ったら、ここで突然左側の車線が左折専用になり、対向2車線に変わる。幅員(車線)減少の標識は、写真に映っているわずか30mほど手前のものだけで、それ以前にはまったく表示されていない。道を知っている地元民などは、一つ手前の信号からすでに右側に車線変更しているため、交通量の多い時間帯だと右だけが渋滞、左はガラガラという妙な風景になる。初めて通る車が気付くはずはなく、うまく右に入れなくて交差点内で立ち往生してしまう事も。
 数km手前、四軒家交差点あたりからすでに見えている、行く手を阻むピンク色の壁。実は国道脇に建っている、お世辞にも品が良いとは言い難い外観の結婚式場。
 長久手町、尾張旭市を抜け、道は瀬戸市内へ。瀬戸川沿いに出ると、川の両岸に上下車線が分かれる形に。その途中、記念橋あたりから国道248号線との重複区間となる。
 瀬戸と言えば瀬戸もの、焼きものの街である。瀬戸川沿いの並びは、そのほとんどが陶器を扱う商店。毎年秋には、大々的に「瀬戸もの祭り」が行われ、多くの人で賑わう場所だ。
 市内を抜けるとまた普通の対向2車線に戻り、多治見方面へと北上。品野郵便局のあたりから、そのまま北へ向かう248号と別れ、東向き、山間部へと入っていく。
 どこが名古屋やねん?と言いたくなる名古屋学院大学を通り過ぎると、道はやがてワインディングロードとなる。通称見晴峠、大小のコーナーがしばらく続く。
 ここ数年でずいぶん道が良くなった、と思う。昔はもっと細かいコーナーの続く、小排気量バイク向きのワインディングだった。まだまだ険しいところもあるが、新たに作り直された部分は大きなコーナーで路面も良く、ファミリーカーで走ることも苦にならなくなった。
 見晴峠をローリングするバイクが多かった時代、その頃のいわゆるギャラリーコーナー。当時ミニバイクレーサーだった自分には、こんなRの大きなS字の何がおもしろいの?という思いしか無かったが・・・あらゆるコーナーの路面に加工を施されてもまだ走っていた連中が多かったが、それも時代の流れでレプリカモデルのブームが去ると共に、ほとんど見られなくなった。今ではツーリングで通るバイクを見かけることさえも少ない。
 峠を抜けたあたりに県境、岐阜県土岐市へと入る。
 「中馬ハナノキ街道」という名称は、岐阜花博以後に付けられたものらしい。県内の代表的な街道筋には、そこで見られる花の名前が付けられているようだ。363号沿いに多いハナノキは、早春に新葉に先だって濃い紅色の花が咲くそうで。また、紅葉も美しいとか。
 中馬街道とは・・・昔の馬を使ったいわゆる運送業”中馬”の人たちが、尾張・信州間の輸送ルートとして利用していたことによって、中馬街道とよばれるようになったとか。363号は、その中馬街道が発展したもの、とされている。
 県境からすぐ、三国山キャンプ場への入口。キャンプ場自体は開設期間も短く、大したものではないのだが、頂上にある展望台は一度行ってみる価値有り。天気が良ければ伊勢湾まで見渡せるとか。
 バイク乗りには、そこまでの道もなかなかおもしろい。林道にアスファルトを被せただけのような2.6kmの上りは、ほぼ1車線の狭さで180度向きを変えるヘアピンの連続。私はXLR-BAJAでステップ擦ったことあります・・・
 途中、民家の無いあたりにオレンジ色の看板が。いつ出来たのか、自分も初めて見た。どうやら、いつの間にかオフロードコースが造られたらしい。
 行ってみたが、さすがに平日の午前中ではゲートがしっかり閉められていた。「何人も無断で入るべからず」・・・入りませんよ、ハイ。看板の文句によると、”高低差100mの本格的なオフロードコース!”とか。またいつか、レースの行われる時にでも取材に。
 しばらくずっと快適な対向2車線が続くが、鶴里町内で一度センターラインが消える。このあたりは昔からの家並みらしく、トラック同士ではすれ違えない道幅。ほんのわずかな距離ではあるのだが。
 地内にある鶴屋製菓は、近辺の名物、竹皮羊羹を作っている工場。近くの温泉などで売られているようだが、鶴屋製菓で直接買うことも出来る。今回は買っていないけど、普通の羊羹のような長細いものではなく、竹皮に包まれた薄っぺらいもの。味は・・・まあ竹皮の風味もするだろうか。羊羹好きの方はどうぞ。
 363号の途中には、柿野温泉と曽木温泉、2つの温泉がある。どちらがどちらだったか覚えていないが、現役時代の落合博満選手や石毛宏典選手が自主キャンプを張っていた。いつも通り過ぎるだけで、今回初めて柿野温泉に立ち寄ったのだけど・・・意外にも大きな温泉宿が数件ある。辺りは民家も少なく、完全に山の中。温泉としてもかなりマイナーだと思うのだが、これぞ秘湯ということなのだろうか。
 瑞浪市に入ってすぐ、国道419号がぶつかる所に、ドーンと据えられた巨大な狛犬。美濃焼で作られた、世界最大のものだとか。高さ3.3mあるらしい。世界最大って、そんなに大きな狛犬を作る必然性が他のところにあるのか疑問だけど・・・
 その巨大な狛犬を作った陶(すえ)の町へ。ここで363号は左へ、町内をバイパスするルートが作られている。バイパスはツーリングマップにも書かれている通り、大きなコーナーで豪快な走りが出来る快適な道で、この区間には信号1つ無い。ところが、他府県ナンバー車以外はほとんどバイパスを通ろうとしない。たとえば信号が赤になっても、バイパス側には常時左折可であるにもかかわらず、だ。
 理由はバイパス出口の信号にある。私は何度もここを走っているが、旧道側から来てこの信号が赤だった覚えが無い。逆に、バイパスを走ってきて青で通過できたことも無い。旧道が陶、山岡の町をストレートに繋ぐ道であるからか、旧道側に比べてバイパス側の青信号が極端に短いのだ。バイパスを100km/h近く出して走ってきても、細い町内を走ってきた方が先に信号を通過してしまう。
 反対に、名古屋方面に向かう場合はどうかと言うと、旧道に入るのは常時左折可、バイパスに向かう直進は赤ばかり。抜けた信号も、なんとバイパス側の方が車両感応式なのだ。バイクだと押ボタンを押す羽目になる。陶の町で暮らす人たちには悪いが、一度それを覚えるとどうしても旧道を通りたくなってしまう。
 陶の町を抜け、明智町へ。岐阜県内の363号線沿いでは、この先の岩村に次ぐ大きさの町。
 市街に、「日本大正村」がある。愛知県内には「明治村」というものもあるが、明治村は明治の代表的な建造物等を集めて作られた野外博物館、テーマパークとでも言うか。建物一つ一つが展示物なので、それはすでに生活の中で生きてはいない。しかし大正村はそういうものではない。町の一角が、大正時代の面影そのままの姿で保存されている。有名なところでは、高山市内の「古い町並み」に近いイメージ。しかし高山の観光地然としたそれよりも、もっと日常の生活感があふれた普通の町並みだ。
 レトロな町の風景には、こういう車がよく似合う・・・
 大正村の町並み自体が、このライフのようなものだ(そんなに古くねえよ!とオーナーに怒られそうだけど)。博物館に飾られたものじゃなく、ナンバー付きで普通に日常の足として使われているライフ。特に観光客の目を集めるために置かれたものではない(少し意図的な気もするが)。この町そのものが、そういうイメージに見えた。
 一見、なんでもない細い路地に斜めに入っていくだけのような辻。ところが、ここがこの明智町が昔から栄えた理由なのだという。ここは中馬街道と南北街道、2つの幹線が出会うところ。この辻を東へ辿れば伊那路、はては塩尻、長野まで。南へ下れば奥三河から岡崎へ。西に辿れば尾張へ、北へ辿れば木曽へと向かう道。南北街道は、三河地方から信州や木曽へ、塩や織物を運んだ道。中馬街道は尾張・信州間の繭や薪、瀬戸ものなどの流通経路。この辻は、多くの人や馬が行き交い、賑わった宿場の中心なのだ。
 今でも残る宿場町の名残。南北・中馬交差点の近くには、いくつかの宿屋が営業を続けている。標高500mを越える山の中でありながら、明智町が昔から栄えてきたのは、こうして多くの人・物が集まる場所であったから、ということ。
 自分がこれから向かうのは中津川、木曽路ということになるだろうか。南北・中馬交差点から木曽路方面、細い路地へと進路をとる。さっきのライフならばもしかして通れるだろうか?という細い道。歩行者に気を付けながら、ゆっくりとバイクを走らせる。
 途中、「遠山氏屋敷跡」があった。文献によると、「遠山の金さん」の血筋にあたるのだとか。
 明智と言えば、真っ先に思い浮かべるのは「明智光秀」の名前。この町の明智氏とは、間違いなく血筋ではあるのだが、光秀その人は一度訪れたらしい、という程度の記録しか無い。それでも光秀は地元の英雄なのだという。本能寺の変は「だまされたんや」という意見・・・この狭い路地に昔の往来を思い浮かべることが出来ないように、本当のことは何もわからない。
 大正村を歩いて眺めるだけなら無料(資料館などは有料)だが、駐車場は有料。国道沿いに、大きな駐車場が作られている。
 その駐車場の向かい、「お休み処 鞍馬」で食事が出来る・・・当日は休みだったが。ここ、「たこやき家族」という名のたこやきが美味。しかし、「ぼくちゃん 3個 100円」から「とうちゃん 30個 1000円」はともかく、「愛人」や「パトロン」のネーミングは・・・
 昔は栄えた明智の町も、今ではやはり山中の田舎町である。明智が終点となる明知鉄道は、第3セクターの小さな列車が走るのみ。
 明智を抜けて山岡町へ。不意に鼻を突く、天草の香り・・・ここ山岡の町は、天然細寒天の生産が全国1位なのだとか。明知鉄道のお座敷列車(季節限定)で出される弁当も、名産のアピールで寒天懐石というものだ。海草である天草を原料とする寒天、こんな山の中で?という気がしないでもないが、寒天と言えばフリーズドライ、それだけ冬は低温になるところなのだろう。これも昔からの産業なのだとすれば、原料の天草も中馬の人たちが運んでいたのだろうか?
 いつの間にか、「中馬」が消えて「ハナノキ街道」になっている。中馬街道は伊那路、飯田街道の別称なので、今で言うと国道153号線ということになる。昔の街道地図がはっきりしないのでよくわからないが、中馬街道としては明智から足助へと向かって行くらしい。中馬街道に関する資料も明智より足助の方が多いようだ。この先の363号は、明智の南北・中馬交差点で選んだ進路の通り、木曽路ということになる。
 旧街道といえば、すぐに浮かぶのは東海道や中山道。尾張から信州へ向かうには中山道か。しかし、そういう大きな街道は規制が厳しく、主に幕府の輸送のためだけに使われていたとか。中馬というのは小規模輸送なので、規制を逃れて裏街道である飯田街道、中馬街道に流れていたらしい。19号を走るトラックを敬遠して、363号や153号を走るバイクと同じではないか・・・
 山岡の向こう、しばらく走るとひときわ大きな町が現れる。岩村は、城下町として栄えたところ。今でも岩村城跡に向かう道に沿って、多くの商店が軒を並べる賑やかな町である。
 明智も岩村も、四方を山に囲まれた町。そういうところがしかし昔から栄えたのは、繁栄を支える産業があったから。岩村は、繭の流通が盛んだったらしい。そういえば明智の大正村にも、繭倉が併設された銀行(現在は資料館)があり、その昔は担保として繭を預かっていたことがあったのだとか。木曽路を上れば中津川のずっと向こう、月夜沢を越えて野麦峠へと達する。オフロードバイク乗りになじみ深いその道は、繭を運んだ道であったか。
 おお、立派な城だ・・・と思ったが、まだ単なる「門」だった。ここから上に、復元された岩村城があるらしい。と言っても、巨大な天守閣があるような城ではない。あくまでも攻め込まれた際の防御を考えた”要塞”の様相。
 ここから上は、バイクを置いて行かねばならないようだ。急ぐ旅でないなら、歩いて見に行くのも良いだろう。
 岩村の売り文句は、「女城主の里」とか。文献によると、女城主が治めていた時代があるようだ。しかし、この灯籠・・・確かに、あの森蘭丸が城主であった時代があるらしいが、いくら美形でも森蘭丸は男でないの?なんだか誤解を生む書き方。
 まあそれはさておき。こんな山中に栄えた城下町を作れたのは、おそらく城主の優れた政策のおかげなのだろう。城から町を見下ろせば、山に囲まれた町が一望に・・・
 しかし、繭が売りにならなくなった今では、やはり岩村も単に交通の便が良いとは言えない、山中の田舎町に過ぎない。363号を延々と走ってこなくても、中央道の恵那ICを降りて国道257号線を走れば訪れることは出来る。復元した城、当時の面影を残す城下町。昔栄えた町を衰退させないために、どのぐらい観光客を集めることが出来るか。現在の城主たる、自治体の政策にかかっているのかも。
 岩村から更に北東へ。いよいよ中津川へと向かう。
 岩村を過ぎると、道はひたすら登り続ける。10数km、ゆっくりと標高を上げ続け、根の上高原のあたりまで。高原のキャンプ場に向かう道を過ぎると、一転中津川方面への下り、大型車の通れない細いワインディングとなる。
 実は、この区間をバイクで走るのは初めて。一度、根の上高原のキャンプ場を利用するために車で走ったことがあるだけだ。バイクでは何度もツーリングで利用している363号だが、通常、岩村〜中津川間の移動は、一度257号で恵那に出て、そこからは19号を走る。狭いワインディングを苦にしないバイクでも、どうしても時間に差が出てしまう。それほど、この区間だけは険しさを残しているのだ。今回のような「取材」という理由でも無ければ、ここを走ることは今後も無いと思う。
 集落に出て、振り返ると、センターラインの無い狭い道が山中へと続いている。この道をずっと辿っていけば、いずれは片側5車線というとんでもない広さの道に出ていくことを、この辺りの子供たちは知っているだろうか・・・
 途中は走っていなくても、この先中津川まであと少しの区間は、なぜか何度も走ったことがある。上矢作からこのあたりまで抜けることが出来、15km以上のダートが楽しめる恵那山林道。いくつかある支線も、かなりの距離で通り抜け可能なところばかりだったので、馴染みのバイク屋の林道ツーリングなどでも何回も訪れていた。単独では、10cm以上積雪のある中を走ったこともある。ここ数年は奥三河の方に出向くことが多かったため、久しく走ったことがないのだが。
 しかし、「災害復旧工事中通行止め」とのこと。私には現在ストマジしか無いので、どなたかこの「平成15年4月」の意味(現在はまだ14年)を確かめてきてください・・・
 道幅が広くなり、センターラインが再び引かれると、程なく国道19号線に突き当たる。この交差点から更にまっすぐ行けば中津川駅がすぐそこだが、その道はもう単なる県道。名古屋から80km余りを走ってきた国道363号は、ここで終わりとなる。
 交差点の角にひっそりと、でもしっかりと据えられている起点(終点?)の印。名古屋へと向かうその標識を後にして、国道363号線の旅を終える。
 今日はまだ、さらに北へと走らねばならない。とりあえず、市内で蕎麦でも食べるか・・・
写真・文 : 河村 敬

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